高畑勲監督の映画『かぐや姫の物語』の感想と考察

「かぐや姫の物語」公式サイト
かぐや姫の物語 公式サイト

高畑勲監督作品『かぐや姫の物語』の原作は、『源氏物語』「絵合」巻に「物語の出で来はじめの祖」とある日本最古の物語『竹取物語』です。映画をご覧になった方はわかるように、基本的には原作そのまんまのストーリーに、かぐや姫の心理を詳しく描いた作品が『かぐや姫の物語』です。

『火垂るの墓』(1988年公開)いらいの物凄い内容でした。前作から14年、制作に8年かかった作品です。どこかで鈴木敏夫プロデューサーが言っていましたが、『竹取物語』をそのまんま映画にするだけでは30分程度の長さにしかなりません。なぜこれが2時間を超える大作になったかというと、かぐや姫の心理を丁寧に丁寧に描いているからです。

光り輝く竹の中から竹取の翁によって見つけられた赤ん坊が、成長し、都へ行き、「なよ竹のかぐや姫」と名付けられます。“絶世の美女”との噂を聞きつけた五人の貴公子から結婚の申し出を受けますが、無理難題でもって退け、ついには帝からの求婚をも断る。さいごには月の世界へと還ってしまいます。

このように原作はへんな話です。いろんな物語の断片をつぎはぎして形成されたようにもみえます。そんな非論理的な話に、高畑勲監督はかぐや姫の心理を丁寧に描くことによって筋道の通った物語へと昇華していると言っていいのではないでしょうか。

ただし、基本路線は「原作そのまま」です。だから、「エヴァ」や「まどか☆マギカ」のように、いままでになかったストーリーや超展開を期待している人には退屈なだけかもしれません。なんせ、「これはだれも予想しなかった展開だ!」というのは何一つないのですから(笑)。

また、これも今作品の特長としてよく言われますが、絵は一枚の紙にスケッチされたかのように描かれていて、ふつうのアニメのようにセル画を何枚も重ねてキャラクターを動かすものではありません。が、絵そのものに興味のない人には「ふーん」で終わってしまうのかもしれません。

言ってみれば、超デラックス版の『まんが日本昔ばなし』です。個人的にはめちゃくちゃ良かったので、ぜひ観に行くことをおすすめします。なんなら『竹取物語』を読んでから観に行ってもいいとおもいます。

ここから先は感想と考察です。ネタバレしますので、まだ観ていない人は読まないようにお願いします。

 

原作『竹取物語』に高畑勲監督が加えた三つのオリジナルな点

原作『竹取物語』には無く、高畑勲監督が『かぐや姫の物語』に加えたオリジナルな点があります。それは以下の三点です。

  • 劇中歌の「わらべ唄」
  • 「なよ竹のかぐや姫」と呼ばれるかぐや姫を元気で、明るく、かわいい女性として描いたこと
  • 幼なじみの捨丸というキャラクター

これから先は、この三つのポイントを詳しく説明します。 1000年前からネタバレしている作品なので、話の展開そのものはほとんどの人が知っている内容ばかりになりますが、高畑勲監督の構成や演出、物語の世界構造についてを書いていきます。

かぐや姫の犯した罪と罰とは?

映画のポスターにはこうありました。

姫の犯した罪と罰。
ジブリヒロイン史上、最高の“絶世の美女”が誕生。

パンフレットには企画書から抜粋された「かぐや姫の犯した罪と罰」について語られていますが、映画ではそこまで詳しく描かれていません。しかし、映像の内容から考えてみると、かぐや姫の犯した罪というのは「地上(地球)での暮らしに憧れを持つこと」であり、罰というのは「地上の世界に落ちる(=堕ちる)こと」のようです。

これだけではまだわかりにくいですね。

月世界と地上という二つの世界構造

まず、物語の世界構造を先に理解しておきましょう。そもそも『かぐや姫の物語』の世界構造は、「月世界」と「地上」との二つに分かれています。

月世界は清らかで美しく何ものにも悩まされることのない幸福の土地です。同時に、何もない世界です。そこには春に芽吹いてくる季節の草花や、秋に色を染める山の景色はありません。野を駆ける動物もおらず、激しい感情をもつ人びともいません。月世界の住人はいつまでも年をとらず、永遠の命を生きています。そこは平穏な世界です。人を憎まず、妬まず、苦悩を知らず、悲しみに襲われることもありません。

かぐや姫の罪は、そんな完璧な世界を否定し、不完全な人間の棲む地上を求めたことにあるようです。同時上映の予定だった映画『風立ちぬ』で堀越二郎が夢の中で逢ったカプローニさんの言葉を借りて言えば、月世界は「ピラミッドのない世界」、地上は「ピラミッドのある世界」ということです。高畑勲監督の年齢を考えれば、月世界を「共産主義の世界」、地上を「資本主義の世界」と見ることだって可能です。

かぐや姫が地上への憧れを持った理由

では、なぜかぐや姫が地上に憧れを持ったのかというと、これは劇中で本人の口から語られます。月世界の住人で、かつて罪を犯し、地上に落とされ刑期を終えて月に戻っていた人が、知らず知らずのうちに地上で覚えた歌をうたい、そのたびに涙を流していたようすを見て、胸が苦しくなったからです。

でも、その人は涙を流す原因を理解していません。地上から月世界へと帰還する際に、天の羽衣を身にまとうことで「地上での記憶のすべて」を消し去ってしまったからです。だからその人は、理由もわからず歌をうたい、涙を流しているのです。

どうして地上に落ちることが罰になるのか?

でも、地上への憧れが罪になるなら、どうしてかぐや姫は地上に落とされるのでしょうか。地上に落とすのなら、むしろ憧れを叶えてやることになるじゃないのか、と首を傾げたくなります。

その理由は、たんじゅんです。「そんなに地上がいいと思うなら、それがどんなに汚らわしい世界なのかを、一度自分の目で見てくればいい」ということです。「いっぺんひどい目に遭ってきたら姫もこんな憧れを持つことなんてなくなるだろう」という感じでしょうか。

「地上の世界を嫌にならせる」のが目的です。したがって、それ以外のサポートはしっかりとします。絶対に姫を死なせません。貧困にあえぐ暮らしもさせません。竹取の翁と媼という「ちゃんとかぐや姫を大切に育ててくれる人間」の元へと、姫を下ろします。

しかし、ここでまた疑問が湧いてきます。「地上の世界を嫌にならせる」のが目的なら、貧困や疫病、差別に苦しめられる場所に下ろしてもよかったのではないか、といえるからです。そっちのほうが、地上の恐ろしさを知らしめるには最適な気がします。どうしてそうならなかったのでしょうか。

ここが「かぐや姫の犯した罪と罰」に関わってくるところです。

どうして月世界は罪人であるかぐや姫にいい暮らしをさせるのか?

かぐや姫が成長してくると、竹取の翁はふたたび光り輝く竹を見つけます。その竹を割ると大量の金がありました。また別の日にも見つけます。こんどは美しい衣装が次々と飛び出してきました。

これを見て翁は考えます。「これは天からのご意思である。天はかぐや姫に都に出て、高貴な方と結婚することで幸せになるべきなのだ」と。翌日から翁はたびたび都へと足を運び、屋敷を構え、かぐや姫を迎える準備をすることになります。

なぜ月世界は罪人であるはずのかぐや姫に、こんな手厚い援助をしたのでしょうか。これは不思議です。こんなにいい暮らしをさせてしまったら、かぐや姫が「やっぱり地上は月世界よりすばらしい!」と思ってしまいかねません。

“絶世の美女”であるという足枷

ここがなぜ「かぐや姫は“絶世の美女”なのか」という理由に繋がります。かぐや姫は“絶世の美女”です。これは当時の(現代でも)女性にとって、とてつもないメリットになります。ましてや「女の幸せは良い相手と結婚すること」が当然だった時代に“絶世の美女”として生まれることは、男で言えば「帝として生まれる」と同じくらいのメリットがあるということです。なぜなら「どんな男性であってもかぐや姫の『美しさ』の前では恋をしてしまうから」です。

じつは、これは月世界がかぐや姫に与えた足枷です。かぐや姫はその「美しさ」によって、あらゆる男性から恋い焦がれます。しかし、その「美しさ」は人を不幸にしかしないものです。

五人の貴公子はそのせいで、みんなひどい目に遭いました。五人が求婚を迫ったとき、かぐや姫は「この世にないほどすばらしい物の喩えとしていわれる数々の品」をじっさいに持ってきてくれたら承諾しよう、と答えます。もちろん、「これで相手があきらめてくれるだろう」と期待して無理難題を言っているわけです。

しかし、五人の貴公子たちはあきらめきれません。それはかぐや姫が「美しい」からです。どんな手を使っても、その「美しさ」は、たとえ己の命をなげうってでも姫を得たい、と思わせてしまうものなのです。

五人の貴公子のうち、ある者は大枚をはたいて偽物を作り、ある者は高価な品を目の前で燃やすはめになります。ある者は宝を求めて嵐の海で死にかけます。ある者は騙されて恥をかき、ある者は腰の骨を折ってそれが原因で死んでしまいます。

これらはすべてかぐや姫の「美しさ」が原因です。あまりにかぐや姫が「美しい」から、そこで男は思考停止してしまう。そして彼女を得るために大きなものを失ってしまいます。こんな話は他の作品でもよくあります。たとえばホメロスの大叙事詩『イリアス』では、トロイアの王子パリスによって“絶世の美女”ヘレネがさらわれたことが、ギリシア軍との戦争にまで発展しました。

映画のさいごになると、幼なじみの捨丸兄ちゃんも、妻と子どもがいるにもかかわらず、かぐや姫の「美しさ」の前にはあっさりと全てを捨てて「一緒に逃げよう!」と言ってしまうほどです。そこに家族を省みる捨丸兄ちゃんの姿はありません。かぐや姫の持つ「美しい」という属性は、他人を不幸にしてしまう力があるのです。

ところで、「美しい」というのは女性にとっていいことじゃないか、ともいえそうです。適当に金持ちのイケメンを狙って結婚すれば、それなりに幸せな暮らしは確保できます。ふつうなら、そうするものでしょう。

しかし、ここにも高畑勲監督の仕掛けがあります。

かぐや姫は自分の「美しさ」を自覚しない「かわいい」女性

かぐや姫は「美しさ」を武器にしません。というか、そんな発想を持ち合わせていません。なぜならかぐや姫は自分がどれだけ「美しい」かを自覚していないからです。

幼いころに捨丸兄ちゃんの子分として野山を駆け回り、都に出ても、イタズラをしたり、猫を追いかけて、はしたない姿を他人に見せてしまいます。

とくに、猫のシーンは印象的です。

都に出たあと、姫が大人の女性となるので「なよ竹のかぐや姫」という名前を与えられるのですが、その名付け人として斎部秋田(いんべのあきた)が屋敷にきます。そこで斎部秋田は、化粧をする前のかぐや姫が庭で猫を追いかける姿を見て、「まったくおてんばな田舎娘だな」とあきれた態度しかとりません。しかし、改めて姫が化粧をし、礼儀作法をわきまえて、斎部秋田のまえに現れたときにはその「美しさ」に目を剥きます。そのとき初めて、斎部秋田はかぐや姫に恋をするのです。

ここは重要です。つまり、かぐや姫の本質は「かわいい」女性として描かれているのですが、男たちはかぐや姫の「美しさ」しか見ていないということです。そして斎部秋田はかぐや姫の「かわいい」姿に興味はなく、「美しい」姿にこそ魅了されます。

さらにいうと、冒頭のシーンも注目です。かぐや姫が竹取の翁にはじめて発見されるとき、翁は「なんと美しい」と驚きます。一方で、かぐや姫を持ち帰ったとき、翁の手のなかに眠っている姫を見て媼は「あら、かわいいお人形さん」というのです。「かぐや姫を見る女性の視線=かわいい」「男性の視線=美しい」という、これ以降のストーリー全編を予告するかのようなセリフの使い分けです。あまりにもさらりと描かれているので、気づきにくいところではありますが。

明らかに高畑勲監督はかぐや姫を「かわいい」女性として動かしています。冒頭での輝く竹の中、三寸ばかりの大きさで竹取の翁に向けられた笑顔を見ても、CMでも目にするカエルの真似をしてはいはいをしている赤ちゃんのときの姿を見ても、捨丸兄ちゃんの子分として野山を走り、木の実を食べ、歌をうたい、笑い転げているシーンを見てもわかります。大きな桜の下で、くるくると回りながら笑顔いっぱいで喜ぶ姿もそうでしょう。

かつて高畑勲監督が演出をしたアニメ『アルプスの少女ハイジ』(1974年)を思い出せば、「かぐや姫はクララではなくハイジとして描かれている」といえばいいでしょうか。

かぐや姫の「美しさ」は他人を不幸にする

高畑勲監督はかぐや姫の本質を「かわいい」女性として描いています。そしてその「かわいい」姿は男の心には響きません。

男たちが求めるのは「美しい」かぐや姫です。しかし、劇中でかぐや姫が「美しい」女性でいるときは、つねに浮かない、暗い顔をしています。たとえば男から求婚されるとき、帝を拒絶するとき、翁に気持ちが分かってもらえないとき、山村の幼なじみに会いたいと願うときなど。

この「美しい」かぐや姫に惹かれた男たちはみんな不幸になります。かぐや姫は自分の「美しさ」をよくわからず、あるいは「本当の自分とは関係ないもの」として捉えているので、自分の「美しさ」が男たちの不幸の原因であることを理解できません。この認識のずれこそが、劇中で丁寧に描かれているところです。

月世界の住人にとって「強い感情」を持つことは「悪」である

それにしても、どうして月世界は、かぐや姫に安全な養育環境を用意し、華美な暮らしのための援助をし、当時の女にとって最高の武器となる「美しさ」を与えたのでしょうか。それは、かぐや姫に「人間の『感情』というものの恐ろしさを嫌というほど知らしめるため」です。

月世界はかぐや姫を地上に落とすとき、地上の女性にとって最高の環境と身分と財宝と「美しさ」を与えました。これだけの武器を手に入れたかぐや姫は、どんな相手とでも結婚できます。

しかし、男が求めるのはかぐや姫の「美しさ」です。一方で、かぐや姫の本質は「かわいい」にあります。であれば、時が経つにつれて、男はかぐや姫に飽きてくるでしょう。自分の夢想した最高の女性が「たんなる田舎の村娘」だとわかれば幻滅です。かぐや姫は捨てられるか、夫に浮気されるか、という恋の苦しみを味わうことになるはずです。『蜻蛉日記』(藤原道綱母)を思い出してもいいですね。

また、“絶世の美女”であるということは他の女が黙っていません。帝の心をも動かす「美しさ」です。女たちの嫉妬や憎悪は計り知れないものとなるに違いありません。たとえば、『源氏物語』(紫式部)における桐壺更衣のように。

このように考えてみると、月世界の罰のいやらしさがよくわかります。地上で最高の暮らしを用意しながら、その暮らしに幻滅し、絶望感を味あわせ、やがてかぐや姫みずから「地上にはいたくない! 月世界へ還りたい!」と言わしめるよう計画された刑罰です。これを考えた月世界の裁判官は凄い、と唸ってしまうほど。

二つの幻について

劇中に二回だけ、かぐや姫が幻を見るシーンがありました。もしかしたら、それは幻ではなく夢なのかもしれないし、現実を「なかったこと」にしてしまっているのかもしれませんが、ここでは幻として書いていきます。

ひとつめはCMでも登場する、かぐや姫が全速力で疾走するシーンです。都に出たかぐや姫が大人の女性としての儀式が盛大に行われた夜のこと、祝いにやってきた男たちは酒に酔って、かぐや姫をひと目見せろと竹取の翁にからみます。翁は丁寧に断るのですが、酔った男たちは「本物の高貴な姫君でもあるまいに」「いくら払ったんだよ、そのヒメサマとやらの名付けによ」「ひょっとしてオバケみたいだったりして」と言いがかりをつけてきます。それまでの日々で故郷の山の人たちに会いたい気持ちを募らせていたかぐや姫は、感情を抑えきれず、それが爆発するかのように部屋から飛び出してしまう場面です。

もうひとつは月に還ると分かったのち、ふたたび故郷の山を訪れたかぐや姫が捨丸兄ちゃんと再会するシーンです。ここでかぐや姫は「捨丸兄ちゃんとなら私、幸せになれたかもしれない」と言い、妻子持ちの捨丸は「一緒に逃げよう!」と手を取ります。

この二つの幻も、映画を見てしばらくは「何であんなシーンがあったんやろ?」とわかりませんでした。これも明らかに月世界の力によって引き起こされた現象です。であれば、そこには必ず月世界なりの理由(悪意?)がなければなりません。

これもキーワードは「強い感情」だとおもいます。かぐや姫は「故郷の山に帰りたい」と強く願ったからこそ幻を見たのであり、「捨丸への愛情を自覚した」からこそ幻を見たのでしょう。「故郷の山に帰る幻」が仲間との別離や、かつてあったものがなくなるという寂寥感。「捨丸との幻」は決して叶えられることのない愛情でしょうか。そういった「強い感情」によって引き起こされる苦しみを、月世界はあえて与えたのですね。

しかも、この二つ目の幻は憎いタイミングであらわれます。かぐや姫が帝の強引な求婚に対して烈しい拒絶をしたことが、無意識のうちに「地上にはいたくない!(=地上を否定する)」というシグナルとして月世界に届けられます。そして十五日の満月の夜に月からのお迎えが来ることになるのですが、「捨丸との幻」を見るのは月からの迎えが来るとわかった後なんですね。捨丸兄ちゃんと幸せになることが決して叶えられない願いと分からせておいて、幻の中で二人を対面させ、はじめて自分の気持ちを伝えることを許し、ほんのわずかな間だけ幸福なふたりの時間を与える。ああ、なんて酷い。

劇中歌「わらべ唄」の効果

劇中歌「わらべ唄」を加えたことも高畑勲監督のオリジナルな点です。原作の『竹取物語』のラストは、ただかぐや姫と竹取の夫婦との離別でした。本来であれば決して出会うことのなかったかぐや姫と竹取の夫婦が、数年間おなじ時間を過ごし、やがて約束の日を迎えて、それぞれの場所へと戻っていくというお話です。

そこに「わらべ唄」を入れることで、悲劇性を増しています。地上でのあらゆる記憶はなくなってしまうが、月世界に還っても地上で得た強い感情は完全には失われず、いつまでもかぐや姫の中に残っているのだ、ということを示唆しています。

月世界に還ったかぐや姫は幸せなのか?

かぐや姫の誕生から月世界への帰還までを見ていると、愛着が湧いてきます。そして、「はたして月に還ったかぐや姫は幸せに暮らせたのだろうか?」と考えざるをえません。

かぐや姫が地上への憧れを抱いたのは、かつて月世界の罪人であった者が歌をうたう姿に胸を打たれて、でした。地上から月世界に還るさい、天の羽衣を着ると地上で得たあらゆる記憶は失われるはずです。しかし、月世界の罪人は知らず識らずのうちに、地上でおぼえた歌を口ずさみ、涙を流すのでした。

それなら、かぐや姫も例に漏れることはないはずです。おそらくかぐや姫も同じように、やがて気がつけば地上でおぼえた歌をうたっている日が来るはずです。しかも、地上での記憶はなくなっています。自分の口ずさむ歌を、どこで覚えたかも知らず、この歌をうたうときになぜ涙が頬を伝うのか、その理由を知ることを決してないまま、これから永遠の命を生きるのです。

これって、凄く恐ろしい世界です。こんな世界に住むのはいやです。

声優として竹取の翁を担当されている地井武男さんは録音当時、高畑勲監督に「これは、地球を否定する映画なんですか?」と尋ねたことがあったといいます。それに対する答えは、「全く逆です。これは、地球を肯定する映画なんです」というものだったとか(地井武男、遺作『かぐや姫の物語』の名脇役が秀逸! (Movie Walker) – Yahoo!ニュース)。

まさに月世界を「グロテスクな世界」として描き、地上(=地球)を「生きるに値する世界」として描くことで、結果としてかぐや姫が帰還する月世界の恐ろしさを浮き彫りにする形になっています。

ラストシーンで『風立ちぬ』『火垂るの墓』を思い出す

このラストを見て、映画『風立ちぬ』のラストをまた思い出しました。夢の中の草原に数えきれないくらいの零戦が墜落し、その中を堀越二郎がカプローニと再会する場面。宮﨑駿監督がダンテの『神曲』にたとえたシーンです。鈴木敏夫プロデューサーは、たしか「煉獄」と言っていたように記憶しています。

あるいは『火垂るの墓』のラスト、清太が節子をベンチで眠らせて現代の神戸の夜景を見下ろすシーンに似ています。『風立ちぬ』では菜穂子さんが「生きて」と二郎に言ってくれましたが、かぐや姫は『火垂るの墓』の二人のように、今も月世界から地上のわたしたちを見下ろしているのでしょうか。

自分で考えていて、「これってやっぱり悲劇なんだなー」とおもいます。とてつもなく文学性の高いアニメーションですね。

アニメーション技法・歴史的検証の再現・リアリズム

ともあれ、この作品はすばらしいです。アニメーション技法の新しさはもちろんのこと、昔の暮らしの細やかなところが詳細に研究され、再現されています。まさに「学者・高畑勲ここにあり」といったところ。竹の切り倒し方だとか、キジの捕まえ方だとか、牛車の乗り降りだとか、貴族に付き従う者の日常の動きや作法など、知らないことを初めて知ることが多かったです。

ただし、内容は『竹取物語』そのまんまです。豪華版『まんが日本昔ばなし』です。派手なストーリーを求める方には物足らないかもしれませんが、高畑勲監督の細やかな演出やアニメーション技法に興味のある人にとっては、最高傑作と呼ぶにふさわしい作品でした。

関連記事

肩にかけてもズリ落ちにくい!エツミ「ネオプレーンストラップ35」は伸縮性のある軽くて柔らかい素材

ミラーレス一眼カメラを購入したら、ストラップはだいたいセットで付いていますが、付属のものはちょっと短かったり、デザインが好みのものでなかったりします。近くのJoshin やヨドバシカメラ、ビックカメラなどに行けばいろんなデザインと機能のある…

自転車のパンクを自分で直してみた

そんなに難しくありませんでした。はじめての人でも、だいたい20分もあれはできるんじゃないでしょうか。 自転車屋さんに修理に出せば1000円前後。自分でやるなら工具代100円のみ。まあ、軍手やペンチも必要ですが。 Amazon.co.jpでみ…